2015.01.05(月)
あけましておめでとうございます。
いつもご訪問ありがとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
年末にポルトガルの首都、リスボンへ行ってまいりました。
3日間という短い日程でしたが、暗く寒いロンドンを離れて、同じ冬なのに
照りつける太陽、澄んだ青い空、碧い海、風は少し冷たかったけど、
街ゆく人々は皆、帽子、手袋、マフラー、厚手のコートにサングラスという
いでたちで歩いていました。


ポルトガルといえば、日本との結びつきをいやおうなく考えさせられます。


1541年、ポルトガル船は豊後へ漂着した年代が描かれています。
右は「発見のモニュメント」といい15世紀の初頭から大航海時代へと向かった
栄誉をたたえる為に造られました。先頭がエンリケ王子です。
史実では、1543年、種子島へポルトガル船が漂着し、鉄砲が伝来されて以降、
最初は貿易という名目で交易をせまり、1549年、イエズス会の宣教師、ザビエルを
送りこみ、内実は日本の植民地化を推進する為にブラジル初め各国をそうしたように
布教で人々懐柔させ、じわじわと政治の中枢に入り込んでいく、時には先住民の
虐殺もいとわず、言葉を奪い、文化を奪い、知識浅く、貧しい人々を都合のいいように
とりこんでいく、そんな先駆者だったわけです。


リスボン国立美術館の南蛮屏風には侍の姿とアラブ服を着たポルトガル人の他
黒人奴隷も描かれています。
織田信長はそんな西洋の文化を好奇心いっぱいの気持ちで受け入れたのかも
しれないし、何より西洋の武器が群雄割拠の戦国時代には何より光輝いて見えた
のかもしれません。南蛮貿易とキリスト教も布教を容認したため、当時人口2000万人
だったうち、70万人もの信者が九州中心から西日本一帯に増えていったようです。
カタカタが現代でも根付いているのはこの時代にかなり日本がとりこまれていた
証拠でもあります。その後英語が入ってきても、カタカタ優勢でカタカタ英語から
脱却できません。それだけポルトガルからの影響力が強かったということです。
ところが、豊臣秀吉の代になって、1587年にバテレン追放令が出されます。
この為、布教が御法度となり、貿易は完全に止めることが出来ない為、長崎の出島
のみと限られ、日本は鎖国の時代へ突入していきます。為政者の考えによって
翻弄されるのは一般庶民なのはいつの時代もどこの国も変わりません。
既に浸透してしまったキリスト教徒は受難の道へと向かったのです。
豊臣秀吉は足軽から関白までなった出世の代名詞としてしか扱われてませんが
大概のドラマでは魅力的な描かれ方をしてる一方で、晩年は息子可愛さに執着して
独裁と強硬政治を行った野蛮人のような扱いをされていますし、
キリスト教を弾圧した為、西洋諸国からは悪人とされているようです。
ですが、彼こそ日本を守った、日本のサムライここにありと各国に知らしめ、
キリシタン大名を通じて貿易の名の元にされていた奴隷売買をあきらめさせる
方向へも導いたのです。
彼は途中でポルトガル、オランダ、イギリス等の欧米諸国の意図に気づいたのだと
思われます。そしてインドやアフリカなど資源ある国が植民地化されていくことを
明日はわが日本とわかって、しかも布教がその最もたる手段だと気づいたのです。
断固として日本を守る、その為には普及の勢いが止まらないキリスト教を止めるしか
なかったのだと思います。
その思いは徳川300年へと引き継がれたのです。
この3大英雄が人気があるのは、おおむねこのことが日本人の潜在意識に刻まれ
ているのではないでしょうか?織田信長を暗殺したのは明智光秀といわれてますが、
このまま彼の暴走を認めれば、植民地化は免れなかったかもしれません。
歴史はその行間をしっかりと読み解く必要がありそうです。
そして為政者となるには光も闇もあるのです。
それでも日本の為という強い思いがあれば民衆はついていくのです。
秀吉の朝鮮出兵についても、教科書では本当のことは教えてくれません。
そんな先人の思いを我々現代人はもっと知るべきです。
話がだいぶそれてしまいましたが、そこに金、銀、ダイヤモンドがあれば、砂糖や紅茶や
綿花があれば、国ごと分捕るのが西洋諸国のやり方です。
そしてそれを行うのは為政者です。一般庶民は命令されて良心を捨て、任務遂行しなければ
自分の身が危ないだけです。
そんなことを考えたポルトガル滞在でした。
でも食べ物は日本人の口にあうし、ポルトガルのお菓子からカステラが生れたように
エッグタルトもめっちゃ美味しかったです。タコのサラダも。


世界遺産のジェロニモス修道院


天正遣欧使節団が1か月滞在したイエズス会のサン・ロッケ教会とその裏にあった展望台からの景色
豪華な内装はほとんどが金箔で塗り固められます。美しさはみじんも感じません。
アフリカの金かと思いますが、日本の金貨も幕末に海外へごっそり流出して失くなりました。
ここに使われていないことを祈ります。


ロンドン西部で心の整体ともいえる補完療法、
インテグレートヒーリング(IH)キネシオロジーセラピー他及び、
キネシオロジー講座をを行っています。
ご興味のある方は
コチラをご覧の上、メールフォームよりお問い合わせください。

キネシオロジー ブログランキングへ
いつもご訪問ありがとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
年末にポルトガルの首都、リスボンへ行ってまいりました。
3日間という短い日程でしたが、暗く寒いロンドンを離れて、同じ冬なのに
照りつける太陽、澄んだ青い空、碧い海、風は少し冷たかったけど、
街ゆく人々は皆、帽子、手袋、マフラー、厚手のコートにサングラスという
いでたちで歩いていました。


ポルトガルといえば、日本との結びつきをいやおうなく考えさせられます。


1541年、ポルトガル船は豊後へ漂着した年代が描かれています。
右は「発見のモニュメント」といい15世紀の初頭から大航海時代へと向かった
栄誉をたたえる為に造られました。先頭がエンリケ王子です。
史実では、1543年、種子島へポルトガル船が漂着し、鉄砲が伝来されて以降、
最初は貿易という名目で交易をせまり、1549年、イエズス会の宣教師、ザビエルを
送りこみ、内実は日本の植民地化を推進する為にブラジル初め各国をそうしたように
布教で人々懐柔させ、じわじわと政治の中枢に入り込んでいく、時には先住民の
虐殺もいとわず、言葉を奪い、文化を奪い、知識浅く、貧しい人々を都合のいいように
とりこんでいく、そんな先駆者だったわけです。


リスボン国立美術館の南蛮屏風には侍の姿とアラブ服を着たポルトガル人の他
黒人奴隷も描かれています。
織田信長はそんな西洋の文化を好奇心いっぱいの気持ちで受け入れたのかも
しれないし、何より西洋の武器が群雄割拠の戦国時代には何より光輝いて見えた
のかもしれません。南蛮貿易とキリスト教も布教を容認したため、当時人口2000万人
だったうち、70万人もの信者が九州中心から西日本一帯に増えていったようです。
カタカタが現代でも根付いているのはこの時代にかなり日本がとりこまれていた
証拠でもあります。その後英語が入ってきても、カタカタ優勢でカタカタ英語から
脱却できません。それだけポルトガルからの影響力が強かったということです。
ところが、豊臣秀吉の代になって、1587年にバテレン追放令が出されます。
この為、布教が御法度となり、貿易は完全に止めることが出来ない為、長崎の出島
のみと限られ、日本は鎖国の時代へ突入していきます。為政者の考えによって
翻弄されるのは一般庶民なのはいつの時代もどこの国も変わりません。
既に浸透してしまったキリスト教徒は受難の道へと向かったのです。
豊臣秀吉は足軽から関白までなった出世の代名詞としてしか扱われてませんが
大概のドラマでは魅力的な描かれ方をしてる一方で、晩年は息子可愛さに執着して
独裁と強硬政治を行った野蛮人のような扱いをされていますし、
キリスト教を弾圧した為、西洋諸国からは悪人とされているようです。
ですが、彼こそ日本を守った、日本のサムライここにありと各国に知らしめ、
キリシタン大名を通じて貿易の名の元にされていた奴隷売買をあきらめさせる
方向へも導いたのです。
彼は途中でポルトガル、オランダ、イギリス等の欧米諸国の意図に気づいたのだと
思われます。そしてインドやアフリカなど資源ある国が植民地化されていくことを
明日はわが日本とわかって、しかも布教がその最もたる手段だと気づいたのです。
断固として日本を守る、その為には普及の勢いが止まらないキリスト教を止めるしか
なかったのだと思います。
その思いは徳川300年へと引き継がれたのです。
この3大英雄が人気があるのは、おおむねこのことが日本人の潜在意識に刻まれ
ているのではないでしょうか?織田信長を暗殺したのは明智光秀といわれてますが、
このまま彼の暴走を認めれば、植民地化は免れなかったかもしれません。
歴史はその行間をしっかりと読み解く必要がありそうです。
そして為政者となるには光も闇もあるのです。
それでも日本の為という強い思いがあれば民衆はついていくのです。
秀吉の朝鮮出兵についても、教科書では本当のことは教えてくれません。
そんな先人の思いを我々現代人はもっと知るべきです。
話がだいぶそれてしまいましたが、そこに金、銀、ダイヤモンドがあれば、砂糖や紅茶や
綿花があれば、国ごと分捕るのが西洋諸国のやり方です。
そしてそれを行うのは為政者です。一般庶民は命令されて良心を捨て、任務遂行しなければ
自分の身が危ないだけです。
そんなことを考えたポルトガル滞在でした。
でも食べ物は日本人の口にあうし、ポルトガルのお菓子からカステラが生れたように
エッグタルトもめっちゃ美味しかったです。タコのサラダも。


世界遺産のジェロニモス修道院


天正遣欧使節団が1か月滞在したイエズス会のサン・ロッケ教会とその裏にあった展望台からの景色
豪華な内装はほとんどが金箔で塗り固められます。美しさはみじんも感じません。
アフリカの金かと思いますが、日本の金貨も幕末に海外へごっそり流出して失くなりました。
ここに使われていないことを祈ります。


ロンドン西部で心の整体ともいえる補完療法、
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